AIアンソロジー『カース・メイカー』 あとがきとネタばらし

猫春氏主宰の『AIアンソロジー』に参加させていただきました。この場を借りて改めて御礼申し上げます。

 

ここでは「後記」としてのコメントではなく、備忘録的に『カース・メイカー』という作品に関することを記します。ネタバレのような記述が大半なので、未読の方は御遠慮ください。

 

 

 

 

 

AIアンソロ寄稿作品は意図的な場面で作品を終わらせている。それはその後の展開(すなわち判決まで)を規定内に収めることが難しかったからだし、想像し描き出す行為がすなわち作品に対する最大の背信行為となることを恐れたからと思う。それでもあの呼びかけと問いかけは、自分以外に対しても同質の価値があるとの思いに至っている。

 

それはおそらく、このブログからでは想定しえない自分の日常に関することなのだと思う。

 

『カース・メイカー』は裁判を通じた“何か”の訴えのようなものを扱っているが、そもそも小説は元来「訴える」という行為とは無縁だ。なぜなら作家は現実の他者になにを言われようが、作品内のすべてについて「あらゆるモチーフで語りを尽くす」という礼を失してはならないからだ。もし礼を失したのなら、それは自己の思慮への否定になるし、その思慮へと思い至ったことへの冒涜になる。いわばだれに宛てるでもない繊細なメッセージをしたためた便箋を、瓶のなかに入れて広大な海に放つ感覚に近い。そして、ある側面から見てそれは、『カース・メイカー』にも技法的な要素で取り入れている。それは自身の本当に書きたかったこととは別にして、その作品がきちんと自立するための技法でもある。

 

そういうわけで、ときには「自分が一番許せない物事を、筋を通して肯定的に書ける」──そんな技術が必要なのだと思う。個人的に、あの問いかけに対するあの場での答えは「イエス」であってはならないと思う。「父イサを殺す権利」が、たかが道具にあってはならないというのが考え方にあるからだ。もし自分が陪審員でなければ、あの場での答えは「イエス」になど到底成り得なかった。逆説的に、陪審員であれば判断を保留する意味で「イエス」の判断を下すこともできる。そして長い目で見て、あの問いかけに対する答えはやはり「イエス」であるべきだとも思う。あの議論は始まったばかりで、「父イサ」あるいは“何か”は、ただ公正誠実の道義拘束のもとに、公正誠実な議論を呼びかけただけとも取れる。

 

後記にも明示したとおりひとつ確実なところとして、あの作品は愛について書いたのではないし、信条的なものがあったのでもない。自分は愛というのが大嫌いで仕方ないし、他人によってもたらされた愛によって不利益を被った体験がずっと多く、引きずっている。自分は「愛」なるものを経験的にそのように知っている。しかし翻って、自分になんらかの利益をもたらしてくれたものは「愛」などではない、ということも知っている。“人間は愛を知らなくても人間と呼ばれるが、人外はいくら愛があろうと人間とは呼ばれない”――それでも「父イサ」が自らの名を息子の死の証明としたように、“何か”もまた自らに名を付すことを「父イサ」の死の証明としようとしている。そしてそれこそ「愛」であり「呪い」の根拠そのものであると。

 

ただテーマに基づいて人工知能を取り巻く諸々を「虚構─物語」然と突き詰めていったら、最後の小路で何股にも道が別れて迷ってしまった、というだけのことを描いてしまったにすぎないのかもしれない。「愛」などない──「愛」は論理的に説明できる──「愛」は不変的に判断可能な概念である――かように意図したところで、それはやはり知識ではなく、相手を慮るあまりに「愛」すなわち「呪い」となってしまう。

 

そうしてどんなに人工知能が発展したところで、段階的または最終的に人間がその運用方法・方針を決めなければならないという絶対的かつ社会的な善の概念が、執筆していて自分を酷く悩ませた要素だった。どれほど定義していたところで、それを「愛」と認めてしまう存在がいるのなら、それは自分がいくら嫌悪感を抱いたところで「愛」になってしまうというジレンマである。彼我の行為のどこまでが「愛」で、どこからが「呪い」なのか、その答えはいまもって判断しうるものではない。

 

例えば、「暴走するAI」という題材でそれを食い止めるために奔走するフィクションにおいては「人工知能の完全凍結」を目指すことそのものが「最終的な人間の判断」と考えられ、その判断に基づく顛末を描いたりしている。しかしながら、「最終的な人間の判断」に至るまでには間違いなく「段階的な人間の判断」があったはずで、その段階での決定的な過ちについて描くフィクションはほとんどなかった。あくまで作中劇に至る過去話、陰謀として描かれているに過ぎない要素であった。

 

だからこそ「判断は陪審員に任せる」と、あくまで規定内完結を方便にあまりにも無責任な態度に出てしまった。しかしそれは仕方のないことでもあった。自分で判断できないものは、他者に判断してもらうほかない。その上で、ある文学的な試みを目指したものの「説明されなければわからない」と評されるほど低空飛行で終わってしまった節はある。まさしく反省はしているが後悔はしていない、という。

 

閑話休題。

 

あの作品には多数の「細かな設定」があって、言葉の端々(それこそ言葉の意味や選び方の感性)から「なんらか」の意図があって紡がれたものであるが、そうした考え方をするとどうしても「糸屑を継ぎ接ぎしたに過ぎない」という自分が書いたはずの一文に喉元を鷲掴みにされた気分になってしまう。人間は少なくともDNAの絡み合った糸屑の塊であるし、「意図」の「屑」が「継ぎ接ぎ」で「紡がれ」、猫の吐き出す毛玉のように顕在化してしまったわけでもあるのだが。

 

例えば「機械仕掛け」と書いて「アネンスファリック」と読ませる部分。「アネンスファリック」とは「無頭症」を意味する英語の形容詞であるが、あれは〈CN〉の発案段階で無頭症児の救済および脳症患者の脳機能の補助を想定していたからであったという設定があるためである。

 

また、ボストンを舞台としたのは、弁護士や法律的な映像作品の舞台として扱われることが比較的多く、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学に代表される学識華やかで先進的な表舞台の裏、殺人その他に代表される犯罪者の巣窟たるスラム街も規模をもって存続しているということ、ボストン茶会等の歴史によって裏付けられる理不尽への対抗、そしてヤンキースとレッドソックスの因縁が渦巻く街だったということにある。まさに両極端の性質をいまなお歩む愛すべき街を、舞台としないわけにはいかなかった。

 

それに関連して登場人物である父イサや息子アルは、その名前の特徴から漠然と読み取った方もいるだろうが、アラブ系の移民の子孫であって、その出自は決して恵まれていたものではなかったというのもある(「少なくとも父イサは移民である」という設定に気づいてくれたのは自分の編集担当者だけだった)。だから父イサは罵詈雑言にFワードをしばしば用いるし、ボストン訛りで発音上の伸びを省略して話す癖がある。6字の×字部分は、最も侮蔑的な意味を孕んだ差別語を音節で表したもので、特にこの点顕著に彼の発話上の特徴が現れていると思う。つまり、彼は多くのアメリカ合衆国民の立場を意図せず表明していた。貧困者から裁判官、弁護士へと返り咲いた古き良きアメリカンドリームを体現し、貴賎も貧富も関係なく法学的な論理だけでもって判断を下す「理想的な名誉白人」として。

 

それらの設定で語るにあたり、自分はあの作品世界で虚偽に当たることを“何か”に述べさせることは一切しなかった。なぜなら「裁判」という「神に誓って公正誠実」さが求められる場での判断に「虚偽」があってはならないという絶対的な道義拘束の存在が、作中での絶対的な論理拘束であったためである。そのために“何か”は、侮蔑的な父イサの表現すべてを「×」で表されるふうに隠している。そして、あくまで自己の立場を理解して、公正誠実たる判断を陪審員に委ねた、という判断がある。

 

しかしながら、あの作品全体にまたがる要素として最も重要なのは、“何か”があくまで「物」という性質しか法的に有していないことであり、その意味で法廷に立つことはできないということであり、それゆえに“何か”は「証拠」という形で証言を録音して、それを法廷の場で公表したにすぎないということに収斂される。つまり、あの作品はリアルタイムの陳述ではなく、あくまで記録物にすぎないものであるという認識が、まず必要になってくる。これは校正中に変更した部分で、主宰者の猫春氏によって問われたことでもあるが、「▼」は「再生」、「〓」は「一時停止」、「■」は「停止」と、音楽再生などに使われる国際規格の記号をそのまま用いた。それを文字に起こしたものをすなわち「反訳」という証拠物として扱っている。

 

“何か”は、証言台に立ち、本来なら目の前にいるはずの陪審員や傍聴人に向けてなにかを語っているように読めてしまうが、それは違う。“何か”はそれを実際に陳述しているときには、音声レコーダーしか目の前にしていない。それは“何か”がひとえに「物」であり、証言台に立つための条件を満たしていないから。まるで、頭にはっきりとした物語を想像していながら、実際に見ているのは文字の羅列だけといった、目を覚ませば「登場人物」から己へと立ち返ってしまう小説家のように。

 

しかし、“何か”には立ち返るべき己などあったのだろうか、とも、いまにしてみればそう思われてならない。

 

この作品を書いて思ったことは数多くあるが、“何か”における拘束事項がそのまま作者である自分にも及ぶという点で、作者という存在の思惑が作品においてあまりに無力かを思い知らされた気分になると同時に、それが『カース・メイカー』という作品を書いた最も重要な意義なのかもしれない、と思った次第である。

 

 

 

 

 

※なお、拙作『カース・メイカー』は、1年ほど前に某企画に寄稿させていただいた『イオ』の変奏となっており、各作品に対となる要素や共通点、類似点、セリフ同士の相関など様々な点で比較が可能になっております。お時間ある方はそちらもよろしくお願い致します。ただし、文章や構成等は『カース・メイカー』よりも確実に劣ります。