AIアンソロジー『SINGULARITY』 総評と分析

 

 

 猫春氏主宰『Artificial Intelligence Anthology』についての自己批判を含めた総評と分析になります。

 ワンクッション置いているので、上記の一文で不穏なものを感じた方、読みたくなくなった方はブラウザバックでお願いします。

 

 とはいえ、自分の作品は自分が一番よく知っていなければならないので、内容の大半は自作に関する批判なのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、AIアンソロ の自作批判も含んだ総評と分析になります。ご査収ください。

 

 

 

ひとまず後記を含めた最後までメモしながら読み進めた。全作品に総じて意見できることは、その作品世界の設定と人工知能物の存在意義とを殊更に強調することに意義が見いだせないものが多く、難儀するということだった。その作品世界でAI(人工知能物)を題材にする必然性があまり見られなかった、というと語弊を含みつつもわかりやすいかもしれない。

 

そのAI(人工知能物)は「なんらかの対象の代替物」という意味しか持ちえないのだろうか。たしかに「人工知能」と一般的に訳される「Artificial Intelligence」は、知的生命体が当然有しうる「知能」たるものを電子回路と電気信号で模倣した存在ではある。しかし一方で、知的生命体なら同様に有しうるはずの「知性」なるものについてはさほど言及されることがない。「知能」は模倣しても「知性」は模倣できないものが「AI(人工知能物)」なのだとしたら、なおさらにAI(人工知能物)を「なんらかの対象の代替物」として扱う意義が納得できなくなってしまう。つまり、本アンソロジー諸作品での作品世界における「AI(人工知能物)」は、あまりにもシニカルな対象として描かれているのだ。多くの作者がAI(人工知能物)に「人間然」とした振る舞いを表現させているにもかかわらず。

 

そうして自分は読み進めていくうちに、悲しいような憤りのような、物語とは直接関係がないかもしれない感情がこんこんと湧いてきてしまった。

 

これは執筆者たち自身が、AI(人工知能物)に関する自分なりの解釈や定義を、執筆するなかで明示され明確化された「世界観」によって補完しようとした結果なのではないかと思う。それはきわめて「人間らしいAI(人工知能物)」「生物のようなAI(人工知能物)」を無意識的かつ無自覚的に想定していた結果ともいえる。

 

先述で軽く触れたが、これについて象徴的なのは、多くの執筆者たちがAI(人工知能物)に「人間然」とした特徴を想像させる描写をしていることにある。そうして用意されたAI(人工知能物)には、ほぼ必ず性格や表情といった外発的な「人間」らしさを窺わせるものがある。すなわち、古典的なイメージから逸脱することのない「人間然」とした柔軟性の有無。またそれを表現するために、「人間」らしさを認識しかつ表現しうる主人公が「人間然」としており、また「神視点」であり、それらに語らせる作品が大半であるとともに、そうした一義的な選択に否が応にも「主人公=作者」としての投影が浮き彫りになってしまったことも理由として挙げられる。

 

あるいは、本アンソロジーに寄せられた作品の多くが、「AI(人工知能物)に感情はあるのか」という問に本質的に答えるものとなっている点が理由として挙げられる。諸作品においては「AI(人工知能物)」を「人間」として見なしつつも、実態は「道具」のように扱っている矛盾した感覚から「理解しがたい存在」という捉え方をしている作品が多かったと思う。刹那的には「人間然」とした振る舞いに対してそれを許容しているが、ふと「やはりAI(人工知能物)は道具なのだ」ということに気づいてからの文体や表現の豹変に、得体の知れない危うさを感じてやまなかった。

 

つまり、どなたかも感じたAI(人工知能物)の作中における存在の整合性的観点から見た違和感は、AI(人工知能物)がその作品世界に存在する必然性が問題なのではなく、その世界で「人間」によってどのような扱いを受けているか、あるいは定義付けられているのかという部分で、特に顕著に違和感を覚えるものがあったからではないかと思われる。

 

AI(人工知能物)は確かに人知を超えるかもしれない。その意味で「人間」とは性質を同一にしないのかもしれない。だからこそあえて疑問としたいのだが、「人間」は人間を超える存在を目の当たりにしていながら、やはり変わらず、なにも感じず、いっとき「便利だ」「すごい」「おもしろい」「気味が悪い」と思うだけで、後は日常に溶け込ませてしまうのだろうか。現に本アンソロジーには、既にそのような「葛藤」をも遠く過ぎ去ったと言わんばかりの遠未来を舞台としている作品が多い。

 

現実でのAI(人工知能物)はロボットの着想から始まり、のちにプログラムの塊として変質した。その後、不可能ではないレベルで実現可能性のあるものとして、百年近く、フィクションにおいても輿論においても様々に形を変え取り上げられ続けてきた。しかし、そのように長期もの間侃侃諤諤たる議論の中心にあるAI(人工知能物)なる存在が、ある一線を越えたら違和感も喉元過ぎて途端に馴染む……ということはありうるのだろうか。それは、「人間」ではないにしも「人間然」とした振る舞いを見せるAI(人工知能物)を描いていながら、あまりにも軽薄で不誠実な態度なのではないかと思う。

 

端的に、本アンソロジーに寄せられた作品の多くには、そのように論理的な「葛藤」がほぼ存在しない。まだ存在しない──しかし将来的にそれは必ず存在しうる──それに対する思考の揺らぎが見えない。それはもしかするとメタ的に読んで「ああ、この結果ありきの結末はいかにも極論を並べ立てて核ミサイルをも発射させかねないAI(※)らしい」ということを示唆するための技術なのかもしれないが、おそらくそのように読まれることを想定されながら書かれた作品はないだろう。なぜなら掲載作品における主人公の多くが「人間」であり、すなわちその点で、「人間然」と認識し表現しうるはずの主人公当人の背後関係が示唆されないまま、まるで感情の読み取れない機械のように淡々と振る舞うさまを、自分は読み進めていくうちに自ずと実感したからだ。代わりに書かれているのは、なぜその世界が存在しているのか、そのような世界になったのかといった背景情報だけだ。これは、我々が生きている間にも人知を超える存在として実現しようとしているAI(人工知能物)が、本アンソロジーの作者たちにとっていかに自己とは無関係で遠い存在かを、皮肉にもシニカルに表す結果となってしまっている。

 

現行の「人間」の尺度だけでAI(人工知物能)を見てしまったら、その対象は「人間」の想定を超えることはできない。本アンソロジーのタイトルである「シンギュラリティ(技術的特異点)」は、すなわちその時点でもって「人知の超越」「人間の想像を超える」意味合いを含んでいるが、少なくとも現実にまだそれは訪れていない。いまというこの時代はAI(人工知能物)に関するフィクション的な想像の余地が残されている最後の時間であるかもしれないのに、題材を通じて自由に発想可能なアンソロジーに収録する物語として読者の想像を超えたり裏切るものはなく、その点で非常に惜しいということを強く感じた。

 

またぞろ感じたのは、AI(人工知能物)なるものに「人間」らしさを見出すのなら、なぜその変化を観察者(多くは「人間」)の視点からしか表現することができないのか、またあるいは、なんらかの相互関係の仲介役としてしか表せないのか、という疑問が自ずと生じうる。本質的にAI(人工知能物)は「人間」の精神や活動を翻訳するものではないはずである。にもかかわらず、先述したとおり「なんらかの対象の代替物」のような描写が目立つ。「人間」を超えるとされているAI(人工知能物)が「人間」の代替物とされるような描き方は、だからこそ自分にとって納得がいかないのかもしれない。

 

AI(人工知能物)は、「人間」の知能を模倣した「人間」なのか「道具」なのか。その狭間にあって「人間」と「人間」とをつなぐなんらかの代替物でしかないのか。

 

そしてよくよく感じられたのは、執筆者たち自身が「AI(人工知能物)」についての思慮を深められなかったこと、最大16ページの制限下で表現しきれなかったこと、あるいは「人間」のことを無みしているか――のいずれかであると考えられる。

 

この点については、自分の編集担当者にも指摘されたとおりのことを書き記している。本アンソロジーに収録された多くの物語は、一般的に「短編」と定義される文字数では到底表しきれないものを取り扱っているということだ。よくて中編、確実に表すためには長編レベルの分量が必要になる。本アンソロジーに掲載された作品の多くにはそうした性質の物語が多々あり、そういう意味では長編として書き直してみるのも間違いではないと自分は思う。



 

 

 

※なお、本ブログ記事は「AIアンソロジー『カース・メイカー』 あとがきとネタばらし」と関連する内容になっております。お時間のある方はそちらの記事もよろしくお願い致します。

 

 

※……『Colossus:The Forbin Project(邦題:地球爆破作戦)』を参照