廃語が歩く

 「これは『チラシ』か『広告』か」という物事の認識や定義・意味問題について友人と口論してしまうような小学校時代だったので、今日振り返って非常に内容の濃い時代だったと思う。印象強く覚えているエピソードもその時代のものが最も多い。またあるいは「漢字とカタカナ語、どちらを優先して使うべきか」という小6のときの討論会では後者陣営に付き「(カタカナ語を使うべきなのは)言葉は文脈中で使われることで覚えるものなので、知らない言葉も使っていくことで覚えていける。わからないからこそカタカナ語を使っていくべき」と答えたのは、いまでは否定できる。

 

 言葉はやはり「わかっていながら使う」ほうがよいのではないか。例えば「リア充」という言葉が嫉妬を表すかのように使われているのをよく見かけるが、(バカ、アホなどの)本来罵倒語ではない言葉にネガティブな意味を文脈に応じて無意識的に含むと、いつしか知らずその意が語に内包されてしまう。また例えば、「下世話」という言葉が「下品・低俗なこと」とごく狭い意味で使われ否定されていることがある。これが個人的にとても気味悪く感じる。下世話の本来の意味はいわば「世間話」のようなもので、それは決して否定されるようなものではないからだ。


「元の意味を知らない」ことにより本来の意味が失われるという無意識的な「意味の捨象」が行われてしまうのは、我々自身が意識せずに言葉を用いることで、言葉の示す原則的な意味を手放し、ネガティブな意を語に内包・定着させてきたからではないのか。それは、もはや言葉自体使われなくなってしまった「死語(Dead Language)」というよりは、言葉という痕跡だけを残し意味が死んだ「廃語(Obsolete Word)」だろう。文脈によって語そのものに主観が混じっていく。より強烈な感情を惹起する意味が尖鋭化し、原則的な意味が人々の認識から消える。新しい語に置き換わることなく。本来そのような意味は無いのに、思慮なくネガティブな意味でしか捉えられなくなってしまった語は、ただただ悲しい。


 その状況さえ「言葉は生き物だから……」と一言で評するのは、言葉を「生き物」と喩えているわりにはあまりにも薄情で、横暴で、思慮に欠けるのではないか。「言葉狩り」より気味が悪い動きだと思う。すなわち、あらゆる言葉から客観的な現象を示す意味が殺がれ、意味そのものに人間の身勝手な感情が内含されるというのが、いわゆる「言葉狩り」の根本原因であるのに、ほとんどだれも指摘しないこともまた奇妙な話である、ということだ。



 日本人は「死」という漢字を輸入して初めて「死」を認識することができたらしい。それまで「死」は彼岸に位置する世界、すなわち「黄泉」だった。そして、「死」という言葉を輸入することで、「死」は日本人にとって避けられない認識上の必然となった。黄泉帰ることのできない「死」が、いつしか日本人の真理となった。


 なぜ「黄泉」ではなく「死」が死生観の真理となったのか、その変遷は非常に興味深いが、重要なのは「死」という言葉や認識がなぜ「黄泉帰り」に取って代わられたのかだろう。本当は当時から「黄泉帰り」が本質的に不可逆であり、妄想なのは皆知っていて、だがそれ以外の死生観を表す言葉が存在していなかったのだとしたら。


 言葉による認識の劇的なパラダイムは明治にも経験している。欧米から様々な専門用語が輸入されてきて、それを漢字に翻訳していった人々は、もれなく漢語を嗜む知識人だった。現在ではカタカナ語としてそのまま用いることが可能になっているが、果たして認識のパラダイムは生じているのだろうか。


 むしろ現代ではその逆で、新語を作ることもなく、次々と言葉から意味を捨象しているのではないか。