見取る:『ブラックサッド』

 2015年も残り3ヶ月となり、日々深まる秋の色に驚かされるばかりです。このあいだは「黄昏飛翔」という、トンボの大群が餌場に向かって大移動する珍しい現象を目撃しました。緑がほとんどない市街地にいても、こうした現象が見られるのは幸運なことです。

 

 話は変わりますが、先日とあるバンド・デシネをシリーズで買いまして、届いてすぐ一気読みしてしまいました。作品の名前は『ブラックサッド』というのですが、簡単にあらすじを書いておくと、人間が動物に戯画化された50年代のアメリカを舞台に、私立探偵の黒猫ジョン・ブラックサッドが事件を解決してゆく……というハードボイルドな物語です。このBDの原作を担当していらっしゃるフアン・ディアス・カナレスさんもそうですが、作画を担当していらっしゃるフアンホ・ガルニドさんの作画がすばらしく、同時にその精緻な想像力に圧倒されてしまいました。

 

 話は逸れて少し過去話をすると、私が小学生の頃、図工の授業で校内の風景画を描くというものがありました。私が選んだのは更衣室で、当時私はバスケットボール部に所属していましたので、その更衣室にひとつ片付け忘れたボールを置いて哀愁漂う構図にしながら、私は絵を描き始めました。鉛筆でデッサンして大まかな構図を見取りながら細かい部分に鉛筆を走らせ、水彩絵具で色を塗る段階に来たのですが、更衣室の窓が磨りガラスだったので、差し込む光加減が非常に難しいことに気づきました。後先考えずに始めてしまうのは当時から私の悪い癖です。とはいえなんとしでも絵は完成させなければならなかったので、なんとか創意工夫を凝らして塗り続けていました。そんななか、最後まで納得がいっていない部分がありました。「影」です。磨りガラスという少々特殊な光が差し込んできてしまう窓のおかげで、ボールや壁にはっきりとした影が落ちていないのです。薄ぼんやりとしていて捉えづらく、主体となる色に影となる黒が薄くかかる状態というのもどうにも画板に再現できず、結局時間切れとなり私は納得がいかないまま作品を先生に提出しました。先生の評価としては「影が非常に上手」とのことでした。もっとも苦心した箇所に対する評価がそれだったので、小学生ながらにまあまあうれしい言葉でした。ですが、そこで納得のいく影の具合が描けていれば、私はもっと誇らしくなれていたと思うのです。

 

 話をもとに戻します。前述した『ブラックサッド』という作品は、アナログの水彩で描かれています。そしてそのなかには「光」と「影」と「彩」という、まさしく小学生当時の私であったら感動してものも言えない要素がほぼ完璧なかたちで揃った「一枚絵の連続」がありました。

 

 巻末に収録された「水彩物語」という作画担当者であるフアンホ・ガルニドさんの創作秘話のような付録には、作品を作るにあたっての非常に有意義なお話が大量の試し書きとともに収録されています。つまり、制作途中の作者の思いがダイレクトに伝わってくる内容なわけです。彼がとりわけ気に留めながら描いたと感じられたのは「色調」です。すなわち、「このシーンではどんな色を基調としたらいいだろうか」とか「この部分の光の差し具合はどうすべきか」とか「ここの構図はこれでいいだろうか」だとか、一番効果的に演出できるテーマに対して、さらに具体的に焦点を絞り込んでどのような絵にするか決めているというのです。また、ワンシーンにどれだけの「背景」を描けるかという1コマにおける情報量も、非常に特筆すべき点です。以前日記の「動体視力、判断力、理解力」で書いた内容ですが、『ブラックサッド』にはこの日記で私が言いたかったことがすべて描かれていました。

 

 そして、まさに創作している最中にどれだけそうした疑問が湧き上がってくるのか、というのが私にはどんなにか羨ましいことに思われてなりませんでした。疑問が湧くというのは想像力が豊かだからこそできることなのです。明らかになっていない部分に光を当てることだからです。わからないことを有耶無耶に表現していては、「一枚絵の連続」のような一貫性ある美しい絵は描けません。そして、明らかになっている疑問に対して答えが出るまで描き続けるという姿勢もまた、私には羨ましいことです。先述したとおり、私は後先考えずに始めてしまう癖があるので、よく言うと「切り替えが早い」のです。悪く言うと「そそっかしい」とも言えます。たしかに職業としての創作活動には納期というものがあるのですが、それを差し引いても私と彼とでは比べようがないほどの隔たりがあります。私は彼より自由な環境にいて「突き詰める」ということができるのに、彼とは比較にならないのです。

 

 ガルニドさんは美術学校でしっかりと絵について学んできてディズニーにも勤めていた方らしいのですが、彼のような非常にわかりやすい目標が現れてくれたことに、嫉妬と羨望と前向きな気持ちになったことは否めません。「すべて想像である」ということの偉大さは、そのまま「想像力の精緻さ」に直結するのです。