「動体視力、判断力、理解力」

 映画を観るとき映画そのものを楽しむ節はある。ところが同時に、一回観ただけでどれだけ多くの表現や描写、情報を読み取れるかというのもまた、鑑賞中の駆け引きのようで楽しい。特に映画館で観る場合は一回の鑑賞でも1000円以上かかるわけだから、なるべく多くの情報を読み取りたいという欲求は当然のように生まれてきたものだ。


 実際の現実の時間の流れの中では、映画よりも唐突かつ瞬時に通り過ぎる出来事が多く、注意していなければ見過ごしてしまうようなことが多く存在する。それをなるべく確実にキャッチし把握するには、相応の動体視力と判断力・理解力が必要になる。人の表情や発言というのは日常に存在する「一瞬で通り過ぎてしまう物事」の最たる例だと思うけど、要するに私は人間のみならず、さまざまな物事が発する「光」を捉えたいのだと思っているし、そうなると、自分しか持ち得ない計測器の精度をより向上しなければならないだろう。最近観た映画で一番感心したのは『最強のふたり』という映画で、とある登場人物が見せた困惑の表情だ。それについては鑑賞メーターの感想ページに記載してるので転送。


 動体視力が必要となると、きちんと人物の内面にも焦点を当てたアクション映画は実はかなりつらいものがあるわけだけど、それはとりあえず置いておこう。顔をマスクで覆っている場合が多いアメコミ映画は、主人公自身の行動をどう読み取るかにかかってくるから、アクション映画でもこちらはまだわかりやすいほうではある。CGアニメも大方はアメコミ映画と同程度か、もしくはオーバーなリアクションが多いだけずっとわかりやすい。


 これを創作に活かすとなると、基本的に動体視力のよい(=一定の時間経過における情報量が多い)描写をする海外文学的な、いわゆる「読みづらい」文章になってしまうところだとは思う。手持ちの海外文学で例えばレムの『Fiasko』での250ページでは、


焼き魚と尿とオリーブの匂いを感じるが、どこからここに来たのかはわからなかった、いや彼はここはナポリであるとたしかに知っていて、小さな浅黒い肌の女の子が、ボールを持って逃げる男の子を追って大声を上げながら走り、男の子は立ち止まっては女の子にボールを投げるふりををし、彼女に捕まるより早く身をかわし、他の子どもたちはイタリア語で何か喚き、階上の窓から髪を振り乱したシュミーズ姿の女が身を乗り出して、通り越しに張られた紐から乾いたスリップとスカートを取り込み、その下に表面がひび割れた階段の一段目があった。


という一文があり、地震が起きる直前の、のどかな風景の描写でありながら、主人公が視線を巡らした束の間にかなりの情報が含まれていることがわかる。一人称なので当然五感を用いた表現が多くなるし、であるからこそ前述した動体視力ともつながってくる。一般的に創作というのは想像の産物なので、「どこまで想像できるか」がひとまず問われてくるし、概してそれは作者だけが囚われることではなく、読者側にも強く求められるものだ。すると、作者の動体視力、判断力・理解力より低い水準でそれを受け取っていると、読み取る努力なしに理解することはできない。広く一般的に海外文学が「読みづらい」と言われる所以は、海外文学独特の翻訳文体の妙のみならず、そうした一連の感応性が伴っていないからなのではないかと思われてやまない。


 それは自分自身も痛切に感じている部分があって、例えば地域性の出やすいノーベル文学賞作家の小説なんかは、まず理解するのが苦しい。ノーベル賞文学作家オルハン・パムクの『雪』はトルコのとある雪の街が舞台だけど、トルコにある街の風景、人々、情勢など、どれをとっても想像するのがやっとで内容にまで踏み込むのは難儀した記憶がある。ひとえに私がトルコの街並みや人々に対する知識や理解が足りなかっただけなのだが、まさしく“光のように”目まぐるしく通り過ぎていく描写というのは、浮かんでは消え、浮かんでは消え……というのを繰り返し、「ああでもない」「こうでもない」と浮かぶ想像上の風景を必死に“目”で追いつつ、それを判断し理解するというのは、並々ならない疲労も発生してしまった。その点映画は「想像」という行為が映像によって省かれている分、楽ではあるが。


 ともあれ、まったく新しいなにかに触れる際(というのは今まさに生きているこの瞬間のことでもあるが)、動体視力、判断力、理解力の有無は非常に大きな役割を果たしてくれるだろうと思うし、私はこれからも“光”を捉えられるような“目”にするために、日々研鑽していきたい。それはもちろん苦労のなかでというよりは、第一に「楽しみ」とか「おもしろみ」のなかで見出していきたいところではある。