粘性が非常に高く容易に飲み下せないもの

 この界隈にいると、とかくそのようなナゾナゾを引っ掛けられてきているような気がしてなりません。

 タイトルの答えは「歴史」であり「現在」であると私は思っています。



 かつて学び舎にいた頃、日本思想史の先生の方がおっしゃっていたことなのですが、歴史を語る際には、為政者の存在だとかどんな条約が結ばれたのかとか、どういう国家関係が構築されていたのかということが多く取りざたされるけれども、そこに生きる名もない人々の生活がどのようなものだったのかということは、あまり明らかにされません。歴史としてまずあるべきは為政者がどのような判断を下したかが取り扱われ、それが当然のこととして思われています。民衆の歴史の多くは、主軸とした歴史に付随する生活史だとか服飾史なんかに一区切り寄せられています。


 ですが、現代をしてそればかりが主眼となるわけではなく、例えばウェストファリア条約が締結された数百年後、国民国家という共同体がスタンダードとなりつつある頃、帰属意識の芽生えの一方で、クリミア戦争時のナイチンゲールのように、国民国家を跨いだ赤十字の前身のようなことをした偉大な方も存在していたわけです。現在でそうしたものの大半はNGOという形態で、国民国家の為政者とは別の権力保持者として表れています。


 重要なのは、語られた歴史の裏で語られていない歴史もたしかに存在している、ということです。なにものかによって選択され選別され一本の道筋として均された歴史というのは、いわばとても喉の通りが良く改良された子供用の飲み薬のようなもので、いくらでも飲み下せてしまいそうになります。ある意味で完璧な物語として整えられたものが「歴史」というものです。ですが、あまりそうした歴史を飲み下そうとするのは、子供用といえど劇物の大量摂取にほかならないということでもあります。


 では、歴史というものの先陣切る「現在」というのは、いったいいかなるものなのかというと、こちらはまだなにも均されていない悪路や、野にそのまま生えた薬草のようなものです。歩きにくく、飲みにくく、摂取するにも無駄な苦労や苦味ばかりが際立って、少しずつしか歩けないし、飲み下せないでしょう。考えてもみると、現在というのは歴史とくらべて未知の部分が多すぎる。だから喉越し良く整えるにも非常に時間がかかるものです。


 均された歴史に対して現在の粘性が高いのはとうぜんのことであり、それは革命でも起きない限り覆されることはないし、私はその性質をよく目を凝らして見てみたいと思っています。しかし、均された道筋では、その道作りを計画した管理者だけでなく、その道作りを無意識に手伝わされた名もない民衆の存在もありました。だからこそ、歴史はもちろん大事ですが、まだなにも均されていない熱帯雨林のような現在をこそどのように見定めるべきか、なにをどのようにどの程度見つめれば現在の突破口が見いだせるか、考えてみたい気もします。それは同時に歴史を考えるとき、当時としての現在をどのように考えるかの一端となります。


 少しポリティカルな話題に触れますが、現在議論となっている日米安保については、議論されていた当時、憲法下で禁止されている天皇の政治関与の疑いがあるとされています。宮内庁が公開した資料のなかでは、昭和天皇が時のマッカーサーや吉田茂首相をも通さず、直接ダレスに日米安保推進の旨の書簡を送ったとされており、これが直接の原因とは考えられませんが、条約締結の大きな足がかりとなったと考えられています。これもまた整えられた小奇麗な歴史のなかで、そこで明確に描かれない個人が果たしたことのひとつでしょう。



 私がなぜ創作のなかで「名前」や「個人」に拘るのか、それは無駄なく整えられた歴史のなかで、あまりにも見過ごされがちな存在がいかなる役目を果たしたのか、その端緒を掴み、飲み下したいと思っているからに相違ないと思います。


 だからというわけではありませんが、全体的に作品の文体が飲み下しにくいのは、私自身がそれを噛み砕こうとしていることの表れなのかもしれません。