経験が宿る

 アニミズム的な信仰をおこなってきた人々は、あらゆるものに神様が宿ると考えています。それこそ、一本の木から一台のPCまで。


 空っぽの神棚を不思議に思っていた時期がありました。単に供えるものが無かっただけの話なのですが、供えるものの無い神棚になんの意味があるのかと母親に問うてみたとき、彼女は「神様はどこにでもいるから、とりあえず形だけ」と言ってくれました。まあ前述したとおり供えるものが無かっただけなんですけど。


 現在別所で書いている作品には、そういう子供時代からの感性が少なからず紛れ込んでいて、アニミズム的に「稲穂にも風にも手負いのカラスにも、きっとなにかが宿っているのだ」と思っていました。それはほぼ確実に現在の私に影響を及ぼしています。すなわち、「あらゆるものには経験が宿る」と。


 高校時代の現国のワークノートに「風」が主人公の物語があって、その「風」が世界中のあらゆる場所を見て回るという内容のものがありました。タイトルが思い出せないので、探そうにももう探せません。ですが、私はそのA4一枚分印刷された物語に感動してしまって、こうした「風」のようなものはきっとどこにでも存在していて、風以外にも例えば野垂れ死にそうな犬だとか、人形だとか、一台の車なんかにもそうした個々の経験があって、もしかするとそれは「風」の物語のように私が経験したことのない物語を紡いでいるのではないか……とそう思いました。


 もしかしたら魂や神様というものは本質的にはどんなものにも宿っていないのかもしれません。

 でも「経験」なら、この世界に生まれ出たどんなものにも確実に宿っていると思うのです。


 私はそうした「経験」を言語化なり文章化なりで変換したものを「物語」と呼ぶのかもしれません。

 だから「物語」――あるいは通俗的に「魂」や「神様」と呼ぶもの――は、死んでなお生きているのだとも思います。