この世のひとつの美徳:『Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)』

 ※鑑賞メーターに投稿したものの加筆修正版

 

 

 

 

 『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』の感想を一言であらわすなら「文学が映像に肉体を与えた」だ。それも、強靭で柔軟でエネルギッシュな肉体を。つまり、文学は作品の土で、映像は作品の巨人だった。

 

 ほとんど全編通してカットがなく、それゆえに時間の流れを明確に描写しないワンショットの技法は、それだけで映像の魅せ方として長大で、まるでひと続きの壮大な絵巻を眺めているようだった。作品の持ち味として大いに評価されたこのワンショット(超ロングショット)技法は、このあいだ読んだミハル・アイヴァス著『もうひとつの街』のように、配役をそこに置き、背景だけがすげ変わるというシームレスな場面転換を映像で見せられたかのよう。

 

 ともすればこれはブロードウェイを舞台にした限り、極めて演劇的な手法であることもわかる。言い換えれば、すべての作品内現実をシームレスに魅せるということが、あくまで映画作品としての大きな飛翔になりえた。

 

 自分にしか見えていない幻覚、かつての自分の誇り高い理想像であるバードマンがリーガンに対して影響を与える場面、超能力のような動きで部屋を荒して他人が来たら素手で壊している場面、ビルの淵に立って飛び降りたかと思えば街を優雅に飛翔して気づけばタクシーで劇場前まで戻ってきた場面、すべてはリーガンの妄想かもしれない。しかし、まぎれもない他者である観客(=私たち)がそれを見ているということが、メタ・レベルで非常に高度で文学的である。

 

 『愛について語るときに我々の語ること』が作品全体にまたがるモチーフとして登場する。端的に「語ることのできる愛とは本物か」ということだ。言語でもなく、言葉でもなく、ただ己が肉体によってのみ語ることのでき、決して言葉にできないことがある。「語ることのできない愛」それがすなわち「いままさに物語られている愛」のことを指している。言語や言葉ではなく、言語に表現されるつねに先を行き、確かな肉体によって着実に紡がれている不可視の存在のことだ。

 

 あるいはそれは、決して歴史として認識されない無名の人の体験であったり、経験という一本の糸によって紡がれてきたものであったり……。私たちの人生はいままさに一瞬の空白無く文章のように、もしくはこの映画のシームレスなワンショットのように紡がれている。しかしリーガンの人生のみならず、私たちの人生は実際、一体なにを物語っていて、なにを物語ってくれるのだろう。私たちの人生とは一体だれに向けられた物語で、だれに感銘を与えるのだろう。そして、私たちの人生という物語の主役は確かに自分自身のことであるけども、それを見聞きしている観客とは一体だれのことなんだろう。それは本当はだれにもわからないはず。

 

 私たちは小説を読むときでも、映画を観るときでも、だれかひとりの全人生であったり、一片であったりを垣間見ているのではないか。であるならば、なぜ「彼は“演技”を通してこんなことを訴えている」「この作品はなにを言いたいのだろう」と考える必要があるのか。それは違うんじゃないだろうか。

 

 私たちは「それをやろうと思った彼自身」について考えるべきなのだ。またあるいは「この作品に関わろうと思ったすべての人」に向けて考えるべきなのだ。それはつまり「架空の創作キャラに対する空虚な自己投影」という陳腐な感性でなく、例えば「友人が悩んでいるから、いっしょに解決策を考えたい」といったごく身近で、だけどとても大切で重要な感性だ。考えても見れば、自己投影なんてしても結局はみんな自分以外にはなりえないことに気づいて、嘆息してまた自分の人生を歩むではないか。

 

 とはいえ、この作品を解するにはあまりにも不可解なラストが用意されているわけで、そのシーンの解釈は実際私にもよくわかっていない。印象になるモチーフはいくつか(燃え落ちるイカロス、浜辺で朽ちた鳥、ライラック等)あるけども、ぱっと気づけるものではないし、なにより長大なシーンが続いていたのに自分を撃ち抜く場面から前述のモチーフを挟んで転換するのはどう見ても不自然だった。

 

 ここで原題『Birdman or(The Unexpected Virtue of Ignorance)』を見てみると、邦題とは少しニュアンスが違うことがわかる。原題に準拠するなら「Virtue」は「美徳」であって決して「奇跡」などではないし、そもそも「Virtue」には「奇跡」という意味はない。「美徳」というのはかなり難解な概念なので、そのまま事例に当てはめて考えるしかない概念でもある。と考えると、「美徳」とはリーガン自身の言語化できない“行動”のことであるし、その行動の帰結として生じた評価のことに相違ない。狂人はしばしば英雄になるけれど、どうして彼はあそこまで狂人なのか、なにに苛まれてあんな無謀をはたらいたのか、それらはすべて映像となって観客の目に飛び込んできたはずだ。

 

 しかし、不可解であっても決して安易に自己投影してはならないのは、これはまずリーガンの物語であって私たちひとりひとりの物語ではないから、私たちがおいそれとしようとするその行為はひとりの人生に対する冒涜であり、いまだ定理を持たない「美徳」であるからこそ、自分の人生における「美徳」は自分で現さなければならない。

 

 リーガンが、だれに見られていたのか。作中の有象無象で名も知れぬ数だけの大衆だろうか。作品の良し悪ししか見ていない批評家たちだろうか。彼らではない。彼らではなく、彼の人生を遠巻きに眺めていたこの映画の観客だけが、彼のことをずっと見ていた。

 

 リーガンはそのことを知らなかった。

 

 だからこそ「無知」で、決して自分を飾り立てるわけではない彼の生き様に魅せられた。

 

 ……

 

 ところで『ドン・キホーテ』という文学作品にはこんな一文があったのを思い出した。

 

「わし(ドン・キホーテ)の伝記の作者は、賢者どころか無知なおしゃべりで、いっさい筋道を立てることなく、出たとこ勝負で、やみくもに書き始めたに違いない」

 

 『ドン・キホーテ』の作品内作者はドン・キホーテ自身を作品にした。つまり伝記に対する彼の批評は、自分の行動への無知によって生じる無意識な批評そのものだった。ドン・キホーテは作品を批評することで、自分自身を批評していた。つまり――「賢者どころか無知なおしゃべりで、いっさい筋道を立てることなく、出たとこ勝負で、やみくもに」――伝記にまでされてしまうような旅を始めた人物は、まぎれもなくドン・キホーテ自身のことだったのだ。

 

 そういう入れ子構造でメタなお話。