本のなかに書かれていることを確かにひとつの現実だと信じていた頃と今

 私は小説を書いたり読んだりしていますが、別にそればかり書いたり読んでいる放蕩者などではなく、たまの漫画、新書や学術書なんかも読んだりする多読派です。むしろ、ブックレットの絵本から始まった私の読書経歴においては、小説というのはせいぜい小学六年生の頃に手にとったライトノベルにその源流にあるので、どちらかというと長い歴史を有しているのは漫画や新書や学術書のほうなのですが。

 

 そんななかで、読書歴初期の私にとっては、本に書かれてあることはすべて本当にあったことや、本当にあったことを少し潤色して書かれたものなのだと思っていました。童話や昔話やちょっと怖い話なんかも、なまじ舞台が現実にある場所のふうに書かれているのが普通なので、なおさら信じてしまうんですね。

 

 三枝さんの『ウィザーズ・ブレイン』を読み始めたときは、さすがの私も「これは御伽噺」と思っていましたが、それは実際の設定や物語展開や登場人物について考えていたことです。私が「これが現実なのではないか」と考えていたことは、作中で「情報制御理論」と称して登場人物たちの人間離れした動きを描写していたことです。この「情報制御理論」は作中の架空の理論で、現実の理論として考えることはできない代物なのですが、「人間離れした動きに説得力を加える」という意味で、私は現実の物理学から発想を借りたその架空理論を用いることにいたく感銘を受けました。

 

 その後、一般小説にも食指を伸ばした私は、自身初めてのメタフィクション小説、久坂部羊『廃用身』という物語に手をつけてしまいました。もちろん当時中学生だった私が文学のなんたるかを知っているはずもなく、ふんふん読み進めていくと「あれ?」と思うわけです。というのも、メタフィクション小説なので、まるでなにか現実で起きた事件を取り扱ったルポルタージュのような書き方をしているわけで、次第に頭が混乱を来たしてきたのです、「こんな事件あったっけ?」と。

 

 『廃用身』のメタ徹底ぶりは奥付にまで及んでいましたので、私はまんまと騙されてしまいました。しまいには介護士であった母親に「Aケアっていうのある?」と聞いてしまう始末。むろん「そんなのは聞いたことがない」と一蹴されました。時間が経つにつれ、メタフィクションというものの存在になんとなく勘づいていったので、「ああ、やっぱりこれはフィクションなんだ」とほっと胸を撫で下ろすことができましたが、物語の真偽が不明だった頃のざわざわした感じ、本当に現実にあったということをまざまざと見せつけられているような肉薄感、それにあまりにも生々しい物語だったので、「こんな書き方ができるなんて……」と恐れおののいてしまいました。その本は購入して十年以上経っているいまもまだ持っていますが、読まなければその感動も薄れていきます。

 

 感動がすっかり薄れ風前の灯火だった頃、私は現実の動きのなかで新たなメタフィクション小説である伊藤計劃『ハーモニー』を手にとったのですが、これにもまた不安で自分をかき乱されたような感覚に陥りました。まさに「心ここにあらず」というやつです。ルポルタージュ形式ではなく、見かけは“完全に”一人称小説「わたし」という記述方法で私自身の没入感もひとしおだったので、読了後の破壊的衝動だってそりゃもうひとしおでした。「殺された」のと同じくらい茫然自失になってしまいました。またしてもメタフィクションの魔力で、私は薄らいでいた感動を取り戻しました。


 本当に衝撃的だった読書経験――『ウィザーズ・ブレイン』――『廃用身』――『ハーモニー』――のおかげで、現実を土台に超現実を語るとき、メタフィクションというこれほどまでに野心的な手法はないと思いました。生来的な現実への興味と、経験的に得た虚構表現とが邂逅する広い地平線が私には見えました。その地平線はもしかすると本当に地平線で、実際にはまったく交差していることのないものなのかもしれませんが、私はその地平線のはるか彼方にいて、それが確かに何ものも介在せず交差していることを知っているし、その地平線の先を見てみたいと思いました。「あそこにまだ見ぬ現実があるのではないか」、「あの先に草木生い茂り鳥が飛び交う新たな大地が広がっているのではないか」という、冒険心にも似た子供の頃に感じ得たような未知へのわくわく感。


 本のなかに書かれていることを確かにひとつの現実だと信じていた頃と今では、少し毛色は違いますが、まったく同じ毛質からできているんだな、と感じている次第です。