軌跡

 最近ふと思うのは、どうして私は小説が好きなんだろうな、ということだった。小説はだいぶ小さい頃から好きそうなものをちょこちょこ手に取って読んできただけのニワカ読者だけど、わりと分け隔てなくいろいろなジャンルのものを読んできたことは否めないし、もし小説(広く本)が図書館戦争ばりの規制を受けるものなら断固抗議するほどの小説好きだと自負している。読んできたなかではもちろん漫画やラノベ、正直規制もやむ無しレベルと思っているエログロナンセンスな本も読んできたし、よくわからないフランス書院や眉唾ホラーでハローバイバイな本も読んできている。まあいちばん好きなのは小説なんだけど。

 

 思えば私は歴史好きだった。

 大得意というわけではない。

 

 歴史のなかで立役者ともいえる人物たちが後世に対し重大な判断を下してきたというひとつの事実それだけでわくわくしたし、初めて歴史としての歴史を知ることになる小学校高学年の頃からいままでずっと、歴史に感じてきた魅力がある。

 

 世界は歴史という軌跡を描いてきた。

 

 歴史に感じた魅力はロマンだった。戦争があって平和があって、のんびりした休日の一コマ、ときに病気や怪我で治せず苦しんだひとりひとりまで、大小様々なものごとが絵筆の先の絵の具の原子、あるいは鉛筆の先の鉛の分子みたいに、すさまじき極小のものごとの繋がりが、内外の要因のはたらきによって確かな軌跡を描く様を私は否応なしに想像してしまったから。

 

 壮大な一枚の絵は、いままさに描かれている。

 ひとつの偉大な物語も、いままさに紡がれている。

 

 「絵」というと完成型しか拝めないものだけど――「小説」つまりは物語の形式を採ると、この軌跡がたしかに目に見えるものになる。どこかで間違いなく描かれていた、過去から現在への一連の動きがまるで時空を超えて脳内に一瞬にして広がる光景に圧倒された。ロマンを感じないわけがない。歴史も小説も、軌跡そのものを辿って描いたひとつの絵みたいなものだと私は思っているし、絵を見取るように軌跡は描かれ、言葉は紡がれていく。

 

 だからここで、「それは鉛筆一本で描ける絵か」、または、「その絵は鉛筆に限らず絵の具やコピックなんかも使って描くものなのか」、あるいは、「”あ”とか”お”とかいった単一の文字だけでものごとの軌跡を辿れるか」、といった問いは自明のことのように私に提起されたともいえる。それは選択の問題とも言えるかもしれない。つまりは、どんな画材を使うか、どんな言葉を使うか、漢字は閉じるか開くか、連続した出来事のなかでなぜその出来事が特筆して重要なのか。数少ないけれど、なにか感銘を受けるものには一本筋が通っているように見える。


 まっすぐ地に立つ人、夕日を見つめる犬の眼差し、風を受けて飛翔する鳥、……。

 一本筋の通ったもの。

 それらを描く力の軌跡。