記述という行為

 物語というより現象の記述について重きを置いたストーリーテリングの場合、意識の有無よりも、認識の焦点がどこに定められているのか、という話になってくると思うし、その点で『イーリアス』の叙述方法は現代人に殊更難解なことでもあると思うけど、挑戦してみたいことではある。

 

 槍の突きしは脊柱の至上の局部、――彼の顎、頭に繋ぎ合ふ處、――槍は二条の筋を截る

 

 上記が実際『イーリアス』に出てくる一節で、ただ単に「首を突く」という表現じゃないことは一目瞭然。この時代の人間が人体についてどれほどの知識があったか、また作者自身にどれほどの知恵があったかは不詳だけど、私が単にこの記述について驚かされるのは前述したように「認識の焦点」だった。衒学的でもなく形而上的でもなく、単に現実の作者の認識をそのまま切り取ったかのようなその方法に私はすごく憧れた。

 

 けれど、それは一方で現実の作者の認識をつぶさに写し取っているわけではないのではないか、と思わされる記述も最近見つけた。『素晴らしきソリボ』というクレオール文学のなかで、「言葉」とは「語るもの自身」によってこのように形容されていた。

 

 シャムの鳥(オワゾー・ド・シャム)よ、おまえは、書く。それもよし。わたしは、ソリボは、語る。違いがわかるかい?(中略)話された言葉を書くことは絶対にないのさ。単語を綴るだけでしかない。(中略)わたしは去るがおまえは残る。わたしは語るが、おまえは、話された言葉から来たと言いながら実際は書く。おまえとわたしは隔たっているが、それを超えておまえはわたしに手を差し伸べる。いいことだ、しかしおまえが触れているもの、それは距離そのものなのだ……

 

 『イーリアス』ももともとは語られていた言葉の一種で、書かれた言葉とは一線を画していた。どんな言葉を紡ごうと語られるときは千差万別の声色のなかで、真実の、たったひとつの言葉を画くことはできなかった。言葉は声ではないし、「語る」こととは別の性質を有した言語形態の一種だった。

 

 そこで認識の焦点の話題に戻るが、私が捉えている言葉はどっちなんだろう、と思い始めてきてしまった。私は言葉が好きだし、自由に組み立ててまったく新しい構造物を創造したいと思っているし、同時に、それが語るに充分な素質を持った文体なら、実際に声に出して読んでみてもいる。しかし同時に、私は言葉が好きだけども、その好きという認識は言葉のどこに宿っているのかわからなくなった。


 「“物語”とは“物語る”ことだ」とは常から思っていることだけど、語ることの性質と、記すことの性質は、やはり大きく隔たって、ときにまったく異なるものだと思う。


 私が書く文章は「声に出して読みやすいか」を念頭に置いて書いているが(いままさにこの記事の文章も)、それは実際に声に出したり、あるいは頭のなかで行動があり、それを一旦語らせてから――記述する、というような手法をとっている。それは作中で、つまり実際に言葉が現実に対して一瞬なり遅れをとっていることにほかならない。絶対に一致させることのできない一瞬のあいだに、縮むことも広がることもない距離を感じる。


 「物語」と「記述」にまたがる上下の境界で、平行線の淵だ。

 遅れをとっているのはいつも記述という行為、記述された言葉。


 上下にずれた境界と平行線の淵を一致させてみたい。