相手を知るということ

 自分は他人と比べたら「よく泣く」とか「泣き虫」とか言われる方だと思うのですが、最近また泣く機会があって、「どうやら他人が感じる”泣きの行動”と、自分が感ずる”泣きの行動”は、違うみたいだ」ということに気づきました。


 目の前に人がいるときに泣くこと自体は久々なのですが、相談に乗ってもらっている相手はそんなに面識がある方ではありません。むしろ、必要なときにしか会わない、という方です。それで、その方の前で涙を見せてしまったのですが、そのときその方はこう言ったんです。


「なんだか困らせてしまっているようで」

「もしそうなら謝ります」と。


 いえ、そんなことありません。と私は否定しました。実際に非があるのは自分のほうでしたし(その情動を”非”と言っていいものかはわかりません)、そんな気づかいの言葉をかけられて、それは今の自分にかける言葉としては間違っている、とも。


 単純に、私にとって泣くのはもっとも体の表層に発露された現象に過ぎません。泣く理由が如何なるものであれ、なにか心的な変化が私に泣くことを強要しているのだとしても、何故泣いているのかの内容までは他人にはわからないものなのです。確かに、おしなべて泣いているときというのは心乱れているときですが、何故といった所以まで、どうして他人がわかるのでしょうか。私でさえつぶさにわかっていないことを、どうして他人がわかったように謝ることができるのでしょうか。


 「泣いているからわかってくれ」、「泣いているからわかるだろう」とは私はまったく思いません。きちんと言葉で話してくれなければわからない。それは私も他人もそうです。でも私は自分の泣いている所以、頭が混乱している所以をその方にはっきり言葉にすることができませんでした。これは明らかな自分の非です。決して他人のせいにできることではないし、謝る必要もないことなのです。


 どうやら自分はまだ、いざというときの冷静さを欠いているようです。そしてまた、自分の気持ちや考えを明確に言葉にする術を持っていません。その中で、どうやって今後そのような方とコミュニケーションを図るのか考えていかなくてはならないと思います。


 わかったことは少しずつ創作に活かしたいところですが、まずは自分について、自分を言葉にすることが必要なのかもしれないなと感じました。「自分だけの言葉が欲しい」と以前Twitterでつぶやいていたかもしれませんが、それと絡めて。