日本語の論理性

 あけましておめでとうございます。

 ひと月以上経ってから新年のご挨拶をするのもおかしな気分がするのですが、そういえば今年の旧正月は2月19日なんですってよ。ちなみに来年は2月8日だそうです。

 

 

 今回の備忘録は「日本語の論理性」。いつものとおり、いきなりなんのこっちゃという話題だけど、二言なしのタイトル。日本語の論理性。


 またぞろふと思い出されたことは「日本語は論理的ではない」という言葉だった。そんな馬鹿げた話を真っ当に理解し納得する人はおそらくいないはず。そう思う。ところがどっこい、ちょっと待て。日常会話を思い出ずべきだ。比較のために英語例も併記。

 

日本語A「塩」

日本語B「はい」

 

英語A「Pass me the salt.」

英語B「Here you are.

 

 なんだかおかしくないか。


 これは日常での日本語コミュニケーションおいて、その意思疎通の要素比重がいかに非言語下に置かれているかがよくわかる好例だと思う。場合によっては夫婦仲の冷めた朝食風景を私たちに想起させ、亭主関白な夫が目玉焼きにかける塩を今まさに妻に向けて要求したところ。

 

 もうひとつ例を挙げてみよう。

 

日本語A「明日ひま?」

日本語B「うん」

日本語A「じゃあ○○に行かね?」

日本語B「いいよ」

 

 自分でもよくわからない会話を書いてるなあと思う。そう、「よくわからない」んだ。


 以前の日記で私は「疎外されている」と書いたけども、それは文脈を同じくしていないから。もっと簡単に言うと、現代人の日本語の使い方はシチュエーションありきということ。


 シチュエーションありき、というのは、例えば先に挙げた「塩」では、そのままの意味で取るとまったく意味がわからない。「塩」と言って「はい」という受け答えなんだから。私だったら「はあ?」と答える可能性が高い。「塩を取って」ならまだしも、「塩」で日本語Aくんが言わんとしていることを察することができるのは、シチュエーションに依存しているからではないだろうか。すなわち、「あなたは塩を取ってわたしに渡してください」ということを「塩」のみで伝えることができるのは、一体どういう非言語の太い文脈が彼らの間に張り巡らされているからか。

 

 あるいは「塩を使う場面が確立したシチュエーションとして学習されている」ということかもしれない。この場合における「塩」という名詞は、そのたった一語だけで慣用句的表現になってしまうふうだ。意味も定義もまるでない、骨抜きになってしまった慣用句的名詞表現に。

 

 「この場面ではこの表現を使えばいい」というのは円滑なコミュニケーションに不可欠な大事な知恵だけど、あまりにもそうした非言語コミュニケーションに慣れてしまうと問題が生じる。単刀直入に言うと、「同じ言葉を使いつつ認識している意味や定義がまったく異なる」という問題。


 なにも問題ないじゃないか、という人はいないと思うし、私は実際問題だと思っている。例えば、私が「塩」と言って、相手が「砂糖」を手渡してきたら、それはコミュニケーションの失敗だ。お互いの認識における明らかな齟齬が生じている。塩と砂糖は見た目そっくりで味はまったく別物だし、認識上の誤解が生じやすくわかりやすい例えだと思うけど、これが言語の次元になると、より重大な問題になる。些細な誤解が生じやすくなり、また、塩や砂糖と違って相手の言語認識を確認しようがないので、ある言葉の意味・定義認識は自己の偏見と先入観という、これまた非言語的な要素に大きな比重が置かれることになる。


 日本語の論理性は日本語という言語にあらず、言語コミュニケーション間の文脈(またはコンテクスト)に大きく依拠しているというのが、本当のところなんじゃないか。「取って」と言われなくても「塩」だけで「“取って渡せ”ということを認識し、その通りにできるように」、場や状況で言葉の持つ意味・発言の内容が大きく変わるのなら、場や状況こそが日本語の論理性とも言える。


 確定的な体系があるならば、それこそが筋道となり論理となる。

 あらゆる偏見、あらゆる差別、あらゆる先入観、少なくとも私からだけでも、日本語という言語は解放されなくてはならないと感じる。