「『The Stanley Parable』とメタの考察」11月4日の連ツイまとめ

MPさんのThe Stanley Parable観てる。まさに「ナレーター=製作者」と「キャラクター=プレイヤー」との対話って感じがする。キャラクターをプレイヤーに見立てて、物語の製作過程をそのままゲームにしたような感じ。これもナラティブ。


展開の主導権がナレーター側とキャラクター側で二転三転した構造から、動画内でナレーター=製作者とキャラクター=プレイヤーが協同的になった場面、ゲームの雰囲気もガラリと変わったのがよくわかる。目的が一致して、当てのない展開にようやく意義が生じたからだと思う。


多彩なエンディングという意味では、エンディングごとにナレーター=製作者とキャラクター=プレイヤーの立場がことごとく異なっているのもおもしろい。物置エンドではナレーター側が論理をこねくりまわして「二人目のプレイヤー」を持ち出すことで彼を支配した。


脱け殻エンドでは、選択するキャラクター=プレイヤーを詰り続けたナレーター=製作者が、結果的にゲームを媒介とした両者の関係性を破壊した。この場合、ナレーター=製作者は、より高次の存在としてのキャラクター=プレイヤーより完全に下位な立場として扱われてる。


また混乱エンドではナレーター=製作者とキャラクター=プレイヤーが同質の存在と化した。Parableという言葉にふさわしいマルチエンディングの存在は、選択を変えればまったく異なる物語になっただろうということを暗に示してる。


このゲーム、「選択することによる展開は無数に存在するが、誰かや何かが物語ることのできる物語はひとつしかない。作中のParable全体でひとつを物語る『The Stanley Parable』という物語」だ。もっと端的に表すなら「物語を俯瞰する物語」。


あと、このゲームに関わる存在で誰がいちばん本質的な意味でメタい存在かって言ったら、それは間違いなくこのひとつの物語をただ傍観することしかできない動画視聴者たちだ。高次の存在は低次の存在を認識することはできるが、直接干渉することはできない。


自分における「物語と対話」の意味が、より強烈な印象で私に影響させている。私の「物語と対話」は、自分自身を物語と同じ次元に存在させることだ。これは喩え話だけど、ゲーム画面は二次元でも、VRMMOなんかで実際にゲームの世界に入ったら、そこは三次元の世界だったりする。