「ナボコフの“魔法使い”の意味の考察」10月7日の連ツイまとめ

ナボコフが優れた文学者のことを「魔法使い」と呼ぶことと、フローベール大好き人間なことの理由がわかりそうなフローベール自身の言葉を見聞きした。

 

「われわれの言おうとすることが、たとえ何であっても、それを現すためには一つの言葉しかない。それを生かすためには一つの動詞しかない。それを形容するためには一つの形容詞しかない。さらばわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を、見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるためにいい加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならない。」

 

で、記憶に印象として残っているナボコフのこの言葉を思い出した。

 

「この小説(『賜物』)は「気狂いじみた布切れの寄せ集め」ではありません。この小説は、心理的な出来事を論理的に綴り合わせた作品なのです。星の運行は馬鹿者の目には気狂いじみたものに映るかもしれませんが、賢い人間は彗星がまた戻ってくるのを知っております。」─『ナボコフ書簡集』

 

魔法でも魔術でも呪術なんかの非現実的なものでも、きちんと体系化された呪文なり詠唱なり要素なり手順等が存在するわけで、児童文学の『ハリー・ポッター』の設定でさえ魔法はきちんとした発音とスペルじゃないと発現しなかったり、まるでとんちんかんな効果が現れたりする。

 

強いて例えれば漫画やラノベの魔法ものであっても、正規の大魔法の詠唱とは異なる詠唱でもまったく同じ魔法が発現しますよなんて設定の作品は、少なくとも私は一度も見かけたことがない。

 

ナボコフの「魔法使い」ってのはそういうことなのかもしれない。思い通りの効果を出すのなら、きちんと体系化されたものを先人から気づくなり、自分で編み出すなりする。それが送り手にとっても受け手にとっても簡単か難しいかは「さんすう」と「数理物理学」くらいの差がある。