「SF小説における古臭さ」7月26日の連ツイまとめ

科学に先進性を付加しているのは正しいのかという気がしてきた。本来なら科学の目的は応用研究じゃない限り普遍の真理を追求するもので、先進性は普遍の真理の追求過程で必要になってくるだけの付随物。本来なら科学は、通った道を舗装しながら行き先を定めるような、むしろすごく泥臭いもんだし。

 

そう考えるといまのSFってめちゃくちゃ応用研究的な領域の産物だ。思えば私が好きなSFって基礎研究的のものが多い。例えば私が好きなトマス・モアの『ユートピア』とか、オーウェルの『1984年』って文学的な貢献もすばらしいけど、書かれている内容そのものが学術的新規性に富んでいる。

 

(とくに「ユートピア」では、その架空の国がたとえ理想のファンタジー世界だとしても、思想・発想的、新たな着想の仕方、という意味合いでの新規性は間違いなくあるし、あった)

 

ガジェットSFってのは応用研究的だ。私が好きなSFは基礎研究的であり、文学的。昔「なにかひとつ普遍の真理を書いてみたい」と意気込んでいたのはそうした精神土壌が私の内にあったからか。ずっと前にやった適職診断で「基礎研究者」って診断されたのあながち外れてないかもなあ。

 

ガジェットSFの致命的な欠点はいずれ古臭くなることだ。「その時代の科学水準・科学的見解」に左右されるいわゆる時代性を多分に含んでいるから、それが超越された科学水準に達したとき「旧きよき時代」としてしか認識されなくなる。一部の人だけが異常にありがたがる代物に成り下がる。

 

(またいずれは、少し変わった形で新たなガジェットが誕生したり、作品内で示されていたものより遥かに高水準な代物が想定した年代より早く世に出ることもある、ということ)

 

例えば最近のハリウッド映画でロボコップとかスーパーマンとかスパイダーマンとかの「リブート」「リメイク」が多いのは、科学水準や科学的見解、あるいは登場人物の心情等における時代性を塗り替えただけの即物。それもだんだん古臭くなって、いずれまたリブート・リメイクされるただの消費物。

 

(閑話休題として、純文学は古臭いと言われる場面が多々あるのもその時代の精神土壌が現代と異なるから、というのがあるが、純文学は商業主義が浸透するまで文章の芸術性を追求するものだったため、ガジェットSFにおける古臭さとはまた違う性質)