消失の時代

 記事タイトルのごとく文学論考です。

 そして例のごとく伊藤計劃さんを回顧・礼賛しています。

 こういうのが嫌いな方は読まないでください。

 

 

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 (1516年『ユートピア』 トマス・モア)

 1888年『顧みれば』 エドワード・ベラミー

 1890年『ユートピアだより』 ウィリアム・モリス

 1949年『1984年』 ジョージ・オーウェル

 1957年『アンドロメダ星雲』 イワン・エフレーモフ

 

 

 明確な社会主義者たちが描いたユートピア・ディストピア小説。いずれも全体主義社会が舞台。内容に含まれた思想を読みとればわかるかと思いますが、社会主義者たちの間ではきちんと自浄作用たる人物たちが小説を用いて啓蒙し続けていました。

 

 いつかTL上で見かけた「ザミャーチンの『われら』が当時ロシアで刊行されなかったという事実そのものが、ディストピアとしてのリアルな物語を体現させている」という言説は、きっとそのとおりだと思います。「イズム」がまだ生々しく鮮烈に生きていた時代で、そこにはそれを体得した「作者その人」がいました。現代日本では「それは合理的で、論理的か」という批判に拠らず「気持ち悪い」と蔑みの対象です。

 

 多くの人は小説というものを「完全なフィクション」と捉えていますが、私はなぜかそう思えません。「その小説は作者が経験によって体得し会得した文脈によって、その根源が支えられている」という意識があります。つまり、「現実の文脈」によって多少なりとも、あるいは作品全体を支える基礎となっている場合があるということです。

 

 それを無視して(おしなべて)文学を語ることは、今も昔もできないはずなのに、どうして今の人々は「funny(おもしろさ)」ばかり重視して「interest(おもしろみ)」を読みとろうとしないのか、私にはわかりません。こんな状態が長く続いては作者としての権利が、読者からも出版社からもメディアミックス界隈からも軽視されるに決まっています。作者が、正確には作者が体得し宿らせた「イズム」が、まるで無いかのように扱われます。

 

 ザミャーチンの著作すべてが当時ロシアで「社会的に無いもの」として当局に扱われていたのと同じ時代。現実でザミャーチン自身が「自作を国内で自由に出版できない」という「嘘のような本当の物語」を身をもって痛感した時代。今、日本の文学界で、もっともそうあってはならない場で、そんな時代に突入しています。

 

 

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 だからこそ、やっぱり伊藤計劃という方はすごいと私自身は思います。そんな時代へ本格的に突入する瀬戸際で、身をもってそんな時代になることに警鐘を鳴らした人だと思います。はっきり言って漫画のほうがはるかに上手に描ける人だったのに、あえてそれほど上手ではない文章と自身の体得した文脈でそれを表現してみせた。文学の内にいて、自浄作用として彼が体得していた「イズム」を世の中の人々に知らしめた。

 

 彼が作家名で「伊藤計劃(以後)」として扱われるのは、彼が久々に明確な「彼自身しか持ち得ず表現し得ないイズム」を有しながら文学界に現れた方だからだと思います。

 

昔の私は伊坂幸太郎が好きで、著作は数多く読んできましたが、今ではそのほとんどを捨てて、著作は『死神の精度』シリーズと『魔王』 のハードカバーしか持っていません。『魔王』も広義でのソーシャル・フィクションですが、個人的にはあまり「現実の文脈」にこだわっていないように見えました。伊藤計劃との違いはあると思います。)