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本質的に純文学は映像化できない。絵画を映像化できないのと同じだ。もしするとなると、それは前衛的な感性を新たに必要とし、原型の生み出す質感をことごとく殺ぎ落としてしまう。(しかし『オフィーリア』については、水の動きや光の反射の煌めきと共に美しい死体が揺れる様を見てみたいと思う)

 

いや。あの絵画はもともと戯曲の一場面を描いたものなので、元来動的な要素のもとに生み出されていたものだ。と考えると、純文学にふさわしいメディアミックスはやはり絵画。少なくとも絵画は「ある一場面しか描き出せない」、「込められた物語のすべてを語ることはできない」。整合性の存在。

 

純文学は端的に「ざらついている」。指先で触れていることと似たような感覚を心が感じている。この質感は、なぜか私にとってとてもリアルで、プリンタで写し出されたつるつるの絵画ではいけないと思う。色々な「画材」で描かれ、質感を現せる「絵画」でなくてはいけない。

 

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以前は自分の書くもので、せめてひとつ世界の普遍的かつ不変的な理屈を証明したいと躍起になっていたけども、それは嘘だったような気がする。「判断そのものが嘘になっていた」と言ってもいいかもしれない。騙されていたわけでも、自分の気持ちを偽っていた(=離反していた)わけでもなく、

 

いつからか判断そのものがすげ替えられていた。ただ「新しい層を重ね、また重ねて論じる」という、数枚した手になって面倒くさいことをしていただけなのだ。だが、それは違う。どんなに語り尽くそうが、すなおになって見ている世界には、単純に物語しかない。なにか論じようとしている

 

何者かの物語を、何者かが語る。物語は、何者かの論ずることも、それによる顛末も、すべてを内包しているものだ。だから、真に語られるべくは物語なのであり、物語から得られる教訓ではないのである。しかし、主観からの脚色は大いに結構。むしろしかるべきであるといえる。

 

した手に出ずともありのままに、いつかどこかで紡がれる物語を、「物語然」として視、語ることができるのは、それを視ることを可能とする、すなおな存在しかいない。