日暮れに向かう

「日暮れに向かう」というのは、別に「あの夕日に向かって走れ」というわけではないことは、ご承知願いたいと思います。

 

 日暮れというとなんだか聞こえはよろしいですが、ひとたび表現を「斜陽」に変えると、打って変わって頽廃的な印象を与えてしまうでしょう。なぜいきなりこんな話をするかというと、まあいつものように日暮らしPCに向かいて徒然に千思万考巡らした末に、私が向かおうとしている場所がつねに日も落つる向こうのような気がしたということです。

 詳しくは申し上げませんが、まるで『ハートロッカー』(2008)の主人公ジェームズのような、日暮れを求めて生きている自分が傍らにいます。もちろん、日暮れより夜明けを求めて生きている自分がいることは実感しています。家族を養うだとか、人を救うだとか、おおよそそのような願望だと思うのですが、しかし、これといってぱっとしない目的だと思いませんか。私は確かにそんなことを目的とすることを努力していますが、先立たなければならないものはあるのだと思います。何よりもまず、自分のために。

 

「自分のおこなっていることが、結果的に他者のためになればいい」

 

 私はいつもそのように感じています。だから、駄目元でもやがて次に繋がるならそれでいいと思っていますし、今すぐにというわけでもないと思っていますので、時間的な制約を気にする必要が事実上存在しません。私が向かおうとしている場所が日も落ちようとしている場所だというのは、そのためだと思うのです。つまり、「まずは自分のために」──それを成しうるためにその地に私が向かおうというのは、すなわち、まず自分に、他者を一切顧みない自己満足のきらいがある所以なのではないかと、そう思うのです。

 何も果たせないまま最終的にいっしょに朽ちてしまう可能性があるというのは、他者のためにならなかったときの苦しみを考えてしまう現在の心の重みを、少しでも軽くしたいと思っているからなのだと思います。

 

 結局明快な解答には至らないのですが、よく胆に銘じておかなければならない。