名付けの怖さ

 名付けの怖さっていうのは、真剣に考えなければいけないことのように思います。

 私には「籠虚院蝉」という名前が付けられていますけど、それは私の人生がまさに虚に籠るようなものだからと言えると思います。つまり、「名は体をあらわすように」。けれども、子供に「悪魔」と名付けるのは、そういう見た感じ酷い名前を付けることで、幸せを奪うような災難に目を付けられないようにするという意図もあるらしいです。

 人に名前を付けるのは、「人生」に名前を付けることと同義だと思います(そして、「その人生には〇〇という名が付けられている」)。同様に、なにかしらの物語に名前を付けることも、同じだけそうなのだと思います。私の創作は(下手なくせに)一人称が多く、その点で言えば、まさしく「人生に名前を付けている」という感がとても強いのですが、これでも「もうこれ以上は名付けようがない」というものを付けています。その物語を際まで考えたとき、その全ての要素を内包した言葉を題名にしています。登場人物の心情から話の展開まで、際まで、際まで。

「人生を書くなら、その登場人物の名前を題名にしたらいいじゃないか」と言われるかもしれませんが、それは少し独り善がりだと思います。そういう作品も世の中には無数にありますが。

 

 今書いている短編『ターミナル』は、そういったいろいろな「名付けの怖さ」を持っています。たぶん、物語と照らし合わせたとき、その題名にある種私なりの「恐れ」が潜んでいることを、読んだ人は感じ(ると思い)ます。

 来年2月頃に公開と書いてありますが、少し早まるかもしれません。